伝承と歴史
7月の最終土曜日に行われる向田の火祭は、近世では旧暦6月の晦日に行われていました。6月の晦日は一年を二期に分かつ折り目にあたり、この時期は農家にとっても稲作や麦作などに虫害・風害などを警戒する時期で、各地で夏越(祓いの行事)の神事が行われています。
明治二十年代の伊夜比咩神社の「社務日誌」では七月三十一日の条に「夏越祭」と記され、「納涼祭」とも称して今日と同じく神輿の渡御と奉燈の随従、大柱松明炎上の義を行っていました。大柱松明炎上の義そのものが罪穢をはらう目的で行われた夏越の神事と考えることができます。
能登の夏祭りはオスズミ祭とよばれ、多くは「納涼祭」の文字をあてており、その形式はほぼ定まっています。祭日の夜、神社に奉燈が参集し、神輿に供奉してお旅所に向かいます。お旅所は古来より定めの地があり、多くは海浜あるいは川岸といった水辺もしくは原野で、ここに神幸して祭典が奉仕され、小休あるいは一泊後、帰社するという形態をとるのが一般的です。
一方、夏越祭はミソギ・ハラエを行う神事で伊夜比咩神社の社伝によれば大柱松明炎上の義は鎮火祭(ヒシズメ祭)のために行うものだと伝えられています。
さらに、大柱松明炎上には鎮火祭の他に神霊の招致の意味もあり、「オスズミ祭には越後の神様がおいでになる、あの大きな柱松明の御幣の上に来て、伊夜比咩の神様と夫婦のちぎりをなさるのだ」と昭和二十五年に十七代の神主から向田住民が伝え聞いたと「加賀・能登の民俗:小倉學 著」に記されています。
また、行事の由来については、往昔、向田は製塩業が盛んで御収納米が納められない年には代わりに塩を納め、野崎の御蔵へ運んだほどでした。ある年、塩やきのシバがたくさん余ったので燃やして若衆の娯楽にしたのがこの行事の始まりだという説もあります。
火祭の由来や起源については記録が少なく明らかにはなっていませんが、能登島は樹木が繁茂し、火祭を行うに至便な地であり、かつ人員に不足のない大村であった向田の土地柄に基づく行事だと考えられています。
元は清浄を重んずる神田(現:向田)の地にて向田の人々が伊夜比咩神社の夏越神事を脈々と受け継いできた伝統的神事です。
今後も強い決意のもと祖先の心を受け継いでいきます。